更新: 2007年 10月 25日

松伏町の歴史概要

松伏町の歴史概要



松伏町の歴史

○原始・古代
松伏町の北東部、大字築比地地区は、下総台地の一部となっています。この台地上では、古くから人々が生活を営んでいました。
 本郷貝塚は縄文時代前期から平安時代にいたる遺跡で、これまで4度の発掘調査が行われています。昭和59年の第2次調査では、縄文時代後期の堀之内式土器と呼ばれる形式の土器7点と石器2点が同じ土壙(穴)から出土しました。後に県指定文化財となり、現在は役場のロビーに展示されています。
 このほか、栄光院貝塚(県指定史跡)、浅間東遺跡などの縄文時代の遺跡、下香取神社西遺跡、前田遺跡などの古墳時代の遺跡が知られており、台地上には現在20箇所の埋蔵文化財包蔵地(遺跡が存在するエリア)があります。教育委員会では開発行為等に応じて調査を行っています。

○中世
 中世期の松伏は下河辺荘に属し、古利根川が武蔵国と下総国の境界となっていました。鎌倉幕府の御家人である大河戸氏は、下河辺荘に隣接する大河戸御厨と呼ばれた伊勢神宮の荘園を管理していた一族で、現大川戸地区との関連も指摘されていますが、詳細は明らかではありません。
 上赤岩、下赤岩地区周辺は中世期には赤岩郷として称名寺(横浜市)の所領でした。赤岩郷に関連した古文書は金沢文庫に保管されているほか、源光寺の帰依仏塔、無量寿院の地蔵菩薩坐像など鎌倉とのつながりを示す文化財も伝わっています。

○近世
 江戸時代、現在の松伏町域は、江戸幕府直轄地でした。松伏、田島、大川戸、上赤岩、下赤岩の5ヶ村は武蔵国松伏領に属し、金杉村、築比地村、魚沼村の3ヶ村は下総国庄内領に属しました。江戸時代には、江戸川の開鑿や改修、新田開発の推進などが行われ、徐々に現在の松伏町の基礎が形成されていきます。
 松伏村の石川民部家は新田開発や寺院の整備などに尽力しました。また、金杉村の飯島家は江戸川の河川改修に功績を残しました。

○近・現代
 明治22年、旧武蔵国松伏領の5ヶ村が合併し北葛飾郡松伏領村、旧下総国庄内領3ヶ村が合併して中葛飾郡金杉村がそれぞれ成立します。昭和30年4月20日、両村が合併して松伏領村となり、翌31年4月15日に松伏村と改称します。昭和44年4月1日に町制を施行して松伏町となり、現在にいたります。

○松伏町の名の由来
 「まつぶし」という地名の由来には2説あります。ひとつは、巷説に、
中世末期に松伏に移住した石川民部家が移植させた松の樹形が伏せ松であったから、とする説です。もうひとつは地形由来説で、「ぶし」とは河川が形成した自然堤防地形を意味し、松の生えた「ぶし」が地名の起こりとなったといいます。

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